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■発足の経緯とエピソード
三島香陵会と高校学区のあれこれ  会長 池 田 裕 (中35回)

 三島地区香陵会の発足は昭和31年。
 戦後の地区香陵会としては早い方だと思う。S30年の初秋?か、街の寿司屋のカウンターで呑んでいた時に店に入った来たのが39回卒の大村君、私は判らなかったが彼は野球部で暴れていた私を覚えていてくれた。
 呑みながら昔話をしながらの中に、「三島にも同窓が多数居る、同窓会をやりませんか…」と云う話が出て私も大賛成の旨を告げる。
 早速世話人会的なものを作るべくお互いに知合いの同窓生に声を掛ける事にする。
 私は呑み仲間の先輩や同年輩の人達、彼は若い部類の人達に声を掛けると忽ちに20名近くの同志?が集まれる事になる。
 場所は街の中心部にある翁亭(御主人は31回柔道部の猛者の八木さん)の2階を提供して下さる。
 仲秋の一夜早くも第1回の集りを持つ事が出来たが、こんな集りに出て来るのは大体酒好きが多い。中学を出てからは夫々に異なった仕事をしているので、談論風発してまことに楽しい集りになるのであるが、場所の提供者の八木さんは下戸だったからこれも面白い。
 地区香陵会をする事は皆賛成して集った仲間達だから、大体の方向は決っている。それでは何時何処で、又会長以下役員の人事も呑みながらワイワイガヤガヤの中で割合簡単に決って行く。大義名分の目的は地区同窓の親睦が第一ではあるが、学制が変って高校に学区が出来たのを正すのが第二、と云う事になる。
 六三三四の学制の変更は、戦争に敗けてアメリカから押しつけられたものの様だが、アメリカは学区までは云わなかったと思う。
 六三三四の学制について後述はするが、この高校学区の制定は誰が何の為に造ったものか?普通科の学区は全国的なものだったから、当然に文部省からの指示があってのものだろう。然し県により“大学区、中学区、小学区”と学区の規模に違いがある。実際の学区制定は各県の教育行政者によるものだろう。
 学区が出来て既に半世紀、悪法を作った当時の人達は皆故人になられているだろうが、悪法は悪法だ。義務教育でない高校に学区を作った事が先ず間違っている。
 一歩退いて生徒の通学の利便を考えての妥当なものなら多少譲っても良いが、東高の学区は正に滅茶苦茶なものになった。沼津に隣接する清水、長泉と三島は学区の外とされた。このバカ学区が翁亭の集りでも話題の中心になったのは当然である。
 裾野、御殿場、小山までが学区内で、歩いても自転車でもチンチン電車30分以内で通学できる清水、長泉や三島は学区外、何ちゅう事ですか?学区内の学校数と人口比率とか、清水、長泉の母親達は三島高女出身が多いと云う論外の事まで言われもしたが、行政区からいっても清水、長泉は沼津と同じ駿東郡、昔流に云えば駿河の国なのですよ。三島は伊豆と一歩譲ってもだ。私は中学進学の時小学校の先生が「沼津の方が韮山より近い、交通も便利だ」と云う言葉で沼中進学を決めた。これが通学区に対する極く自然な考え方だろう。
 三島地区香陵会設立の目的に
 一、同窓の親睦
 二、間違った「学区改正」とした。
 そこで、 より一層悩みの強い清水、長泉の同窓に“一緒にやりませんか”と聲を掛けると、喜んで賛同してくれた。(後年、清水、長泉は夫々地区会を創って独立して行く…のだが…)
 初代の役員は、
 会長  関野 一(中21回、医師)
 副会長 大河順三(中14回、薬剤師、薬局経営)
   〃  林 昌彦(中30、僧侶、林光寺)
となる。偶然「医師、薬屋、坊主」という変った取り合せになって皆で笑ったものだ。
 私は話の持ち出人だから庶務幹事、以来16年間総会の通知を始め、何やらとやらされたが、同窓会名簿から地区在住者を拾い出すと600名弱、初めは全員に往復葉書の通知書を出したが、返事の有無を“星取表式”にして、3年続けて返事も呉れない人は通知から除外する事にしたが、母校愛と云うか同窓意識の薄い人も結構居るものだと思わされた。
 基金も何も無い会には通信費も勿体ない。
 さて、何人位の人が集ってくれるかと思ったが案外と60数名から出席の返事が来た。
 初めの頃は高校卆はあまり地元に居らず殆どが沼中卆だったのは当然。
 当時三島には卒業年次一桁の方は居らず、清水町には何名か居られて出席して下さった。
 吾々が沼中でお世話になった高田嘉應先生もその一人で「昔は黄瀬川以東の者達が『黄東会』と云う名称で集まったものだ…云々」と昔話をして下さった。
 即ち“三島香陵会”は“黄東会”の後継と云う事になる。猶三島香陵会の名称は39回廣瀬秀禮君の発案である。
 第1回総会は総会は昭和31年晩春か初夏だったと思うが、現在と異なって会場探しは苦労した。
 楽寿園の「楽寿の間」の借用を市役所に申入れると簡単にOKしてくれたが、総会当日になって“酒食を伴う集りは駄目…”と断られる、驚き慌てましたネ。
 世話人の一人が楽寿園の向い側小泉園の中にある大伊豆旅館を交渉してくれた所、引き受けて下さって何とか無事に済んだ。
 2回目は三嶋大社の参集所をお借り出来たが旅館や料亭と違って酒の燗をしてくれる人が居る筈がない。高卒3、4回の人が3人出席してくれたがこの人達は専らお燗番で殆ど自分の席に坐って料理を食べる暇も無かったのでは、と申譯無く思う。猶この3人の中2人は酒屋の息子さん達だったから面白い。
 其後“ひしや旅館”(現プラザホテル)で何回か行い、中島の“義よし”さんの2階をお借りしたりと会場設営には苦労した。
 暫くして三島駅前の田代グリルの婿さんが東高卆の同窓と判って渡りに舟で、以後は幹事会、総会共にお世話になり続けている。
 何回目からか総会は1月第4日曜としたが1月第4日曜は大相撲の千秋楽。5時集合と通知したが5時に会場へ来た人達も相撲のテレビを見ていて会場へ入らない、結局6時開会となるのだが相撲を見ながらも同窓間に話の花は咲いていたから良しとすべきか?
 沼津や御殿場香陵会では総会が済むと先輩の然るべき方達の文化講演を聞いてから懇親会に入るのを恒例としているが、三島は世話人共が酒好きが揃ったので、会長挨拶其他の総会と称するものが済むと早速に乾杯となるのが常の事。口の悪い先輩には「これは沼中会ではなくてノマ中会だな…」と冗談を云われた。
 同窓にも当然酒は呑めない、嫌いと云う人も居るが、この人達は一回出席すれば後は敬遠されるのが当り前と云う事であろう。
 第1回の時60余名の出席者だが大村君(会嘉酒造の二男坊)が「酒、何本用意しましょうか」と「20本もあれば…」と云う事で20本の持込みで用意したのだが、始まったら皆呑むわ呑むわ、急いで10本追加となる。一人五合平均ですよ、「こんな宴会初めてだ…」と女中さん達驚いていたが、中には酒癖の悪い者も居る。酔った後輩が先輩に失礼すると云う一幕があって、2回目からは合成酒とする。合成酒なら醒めが早いのでトラブルは無くなった。呑み且駄舌って楽しい一夜の宴は一度終るのだが、それから若い者達で反省会と称する二次会になる。私が庶務幹事をしている間は大体赤字になる事が多かったが34回の高野弘さん(高野製紙の専務)が帳場へ行って話を付けて来る。「オイ池田、話済んだよ…」と云う、高野製紙もその頃は盛業で後で埋め合わせをしてくれたものの様だったがこれが毎度の事、私も「有難う…」丈で良しとしていたのだから暢気な話しだし、古き良き時代とも云える。
 三島香陵会も当初は出席者の殆どが沼中OBだったが時の流れと共に東高OBが増えるのは当然、最近はOGも何名か出席してくれる様になって来た。然し学校が香貫から岡宮へ移って暫くすると所謂学区外からの受験の制限や締め付けが厳しくなり、沼中OBが消えて行く数と東高OBの新しい数とのバランスは崩れて行く。最近の地区会出席者は40名前後で推移しているが、今の若い人達は行儀が良いと云うか昔の様にバカ呑みはしない。庶務会計の腕もあるだろうが余剰金を出すのだから恐れ入る。沼津や東京の様なムンムンとした熱気は無いが毎年楽しい一刻を過ごしている。


 最後になったが三島香陵会の歴代会長は

 一、関野 一 (中21回)(医師) 
 二、大河順三 (中14回)(薬局経営)
 三、下田照太郎(中14回)(日本画家)
 四、尾上正明 (中26回)(医師)
 五、芹澤 佐 (中31回)(医師)
 六、前田実啓 (中34回)(会社経営)
 七、池田 裕 (中35回)(医師)

となっている、が医者が多いのは何う云う事なのだろうか?宇山直亮(中31回)(静大教授)や高野弘(中34回)(高野製紙)先輩等は当然会長になられている方達だが残念ながら早く逝かれた。
 私も前田さんから会長職を引き継いで随分と長い事になる。高校卆の人達が既に六十歳を越えた。皆立派な社会の指導者達である。
 私の様な年寄りが何時までも会長職を汚すのは宜しくない。香陵会に参加させてもらって皆さんの有様を見護らせて頂けたら、と思ってはいるのだが…。


(「沼中・沼津東高百周年記念誌」から転載)

(注)池田 裕 氏は現在名誉会長としてご活躍中です。





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