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■会員の思い出



会員の思い出 1



     思い出すままに
大村英男 (中39回卒)

 三島から沼中へは十数人が通いました。私は一〜二年はチンチン電車で、三年からは汽車通にかえました。体が大きくなり、チンチン電車の中がせまくなってしまったので。
 三島からの連中は、夏休みあけの最初の週、午前中で授業が終ると、よく皆で千本松へ行って泳いだり、また野球チーム(太平洋)を作ったり、つきあいが沢山ありました。
 三島以外で、何人かを思い出すと――
 一年のとき弓道部に入ったら、岡野君がおり、ある日遊びに来ないかということで、部活のあと白銀町のお宅について行きました。門を入ると式台つきの大きな玄関が正面にありました。私は横の出入口からあげて頂き、執事のような方からお菓子を頂いたことがありました。
 私が、現役で広島高校(理科)に入ったことで、横山君など大変喜んでくれ、わざわざ三島まで来てくれました。そして思い出になるからと二人で箱根に遊びに行き、夕方強羅の駅前の旅館で「米は持ってきたので二人泊めてくれますか」と話しましたら、「よいですよ」と泊めてくれました。その翌日は熱海で下車し、小高い岡の上で残った米を飯盒でたいて昼飯をたべたことがありました。そのとき彼は一高生、私は広高生でした。
 また、白綿帽子・黒マント・高下駄の旧制高校生スタイルで、埼玉県豊岡にあった陸軍航空士官学校の正門 をくぐったことがありました。
 どうしてか。
 汽車通で網代からきていた石川圭一君が入学していて、記念祭なのでその日は誰でも入れるから来ないかと 、私は彼の顔見たさ半分、あとの半分は軍人の学校とはどんなところか、見たさもあり面会に行ったわけです 。
 終戦後、そう日もたっていない頃、私が三島の家におりましたとき、石川君がひょっこり訪ねてきました。とっさに「よく生きていたな」の問いに、「満州で飛行機に乗っていたが、ソ聯が来る前に朝鮮に移動して無事だった」とのことでした。二人で二階の窓から青空を見上げて再会を喜んだ事がありました。彼は飛行機乗り、私は航空工学科の学生でした。
 また、ある学年のときクラスが一緒だった杉山憲一君が、自転車通のよさをしきりに話すので、休日の一日二人で御殿場の浅間神社まで、サイクリングしたこともありました。

 どうして私が広島へ行ったのか、広島には知りあいも何もありませんでした。ただ日本地図をながめていて、瀬戸内海に面し、よいところではないかというのが当時の考えでした。
 広島には八月六日に原爆が投下されましたが、私はその年の三月卒業し、四月から仙台の東北大に移っておりま した。大変ショックを受けました。
 特に、広高の一年から二年に進級するとき、四十人のクラスで十人落第させられ、私はひやひやものでしたが十人のなかには入らないですみ、ただ二年になったとき人数が減ってさみしくなるなと思っていましたから、なんと同じ人数が留年していて、またクラスは四十人になったことがありました。きびしい学校でした。
 毎年八月六日がくると、テレビ・新聞等が広島のこと、原爆の子とをいろいろ報じます。私も三島を離れて初めて住んだところですので、町名その他大体分かります。最近は年一回行く機会もあります。
 それだけに、犠牲になった大勢が思い出されてなりません。サッカー部で一緒にグランドを走り廻った親友が、京都(京大)にいたと思っていたところ、夏休で広島の実家に帰っていたばかりに、二十年の短い一生を終えてしまいました。人間の運不運が紙一重だったということが、つくづく思われてなりません。
 現代の世界・人間社会で、科学技術が突出して進んでしまい。本来一番大切であるべきモラル・理性などの基本が全然進化しない人類の現状は、今後どこに行くのか気になるところです。

(平成11年4月発行「沼中三九会記念文集 香陵の杜」から転載)



会員の思い出 2



     二枚の卒業証書 〜沼津第一高等学校のこと〜
中川和郎 (高1回卒)

 今、私の手もとに2枚の卒業証書がある。1枚は昭和23年(1948年)3月の沼津中学5年卒業のものであり、もう1枚は翌24年の沼津第一高等学校のそれである。

 戦後の「教育基本法」等の公布に基づき、新制度が発足した際に名付けられた校名は、複数校の場合ほぼ全国的に第一、第二に分けられていたようだが、噂によるとそれは差別的で不公平であり民主的でないという理由で、大半が一年間で改称されていったと言う。(因みに沼津の場合、現西高が二高であった)。

 いずれにせよ沼中最後の第45回と高1回の卒業証書を2枚手にした私達は、戦後の混乱期とはいえ妙な気がしてならない。

 私達は昭和18年(1943年)沼中へ入学した。総員278名だったと言う。その後、戦争末期の疎開等によって、京浜地区その他からの転校生が相次ぎ、2年生になる頃には教室があふれる程に増えていった。

 香陵会同窓会会員名簿によると、昭和22年4年修了が32名、翌5年卒業が159名(実質290余名)、高1卒が159名となっている。計350名だが、敗戦半年たらずで元の学校へ戻った者も随分いたので、実際の同級生は一時更に多かったと思う。

 ご承知のように敗戦の1か月程前に、沼津は空襲で焼け野が原と化した。勿論母校も消失した。私達は焼け残った沼農(現城北高)や工場の事務所等に他校生と共に時差登校したり、遠隔地の生徒は寺子屋的な分散授業を受けていた。

 そして20年の暮れ、海軍工廠事務所に、言う所の「討ち入り」入所し、全校生徒がそろう校舎が整った。新制度への対応が検討され始め、自治会が生まれ、各種の部活動が活発に展開されていった。新制高校への変革は、そうした中でかなりの日時をかけ徐々に進められていた。自治会活動の視察のために県外へ出掛けたり、その会則や校章、学年別のバッジの作成準備など、すべて学生自身の手分け作業で行われていたと言っていい。

 その間、21年夏、野球部は戦後初の全国中等学校大会に山静代表として西ノ宮球場に駒を進めたり、他の運動部もそれなりの好成績をあげていた。(当時甲子園は進駐軍に接収されていたし、出場校は静岡・山梨両県から1校だけだった。)

 そうしてようやく23年春、元の香貫に新校舎がほぼ完成し、私達は沼津第一高等学校生としての第一歩を踏み出すこととなった。

 当時私は野球部に籍を置き、尚、映画部や郷土研究部にも名を連ねていた。野球部は沼中最後のチームが、今思い返しても最強だったと思うが、県大会で富士中に敗れ、当時の朝日新聞県内版に「巨星沼中遂に陥つ」と書かれたりした。したがって沼一高はかなりの実力はあったものの、まだ未完成なチームだった。ところが県大会で静岡一高(現静高)を破り優勝、山静大会の決勝で再び対戦し、結局は守備の乱れから敗退し甲子園への夢を断たれた。確かに悔しかったし、残念だったが、私にとっては前年の惨敗の方が痛かった。しかし新制高校になって初めての県大会の優勝校として、沼津第一高等学校の名は永久に記録の上に残されている。

 すべてが学校側からの命令や強制ではなく、生徒の自治が優先されていた当時の学校内では、購買部の設立やバイト代をかせぐ為の掃除部の創設など、それまでになかった様々な変わった部が誕生した。そしてまた、ホームルーム制が導入され、それらの目新しさに結構楽しい毎日を送っていた。

 私は映画に溺れ、週に二、三度は映画館に通った。三島、沼津の何館かは只だった。時折は学校をさぼり、暗い館内で弁当を食べながら、スクリーンを見つめ続けた。そして部誌の発行に熱中した。あるいはまた、小説等を乱読し、受験勉強と称して明け方まで読みふけったものだ。そんな最中、好きだった太宰治の入水自殺は私にとっても強烈すぎる事件であった。

 その頃忘れがたい思い出に、新校舎での生徒による夜警団のことがある。校舎設立時、資材の盗難に備え不寝番制があり、一部市内の生徒は経験済みだったようだが、新校舎になった頃あちこちでガラス泥棒が出没し、その為クラス別に順番に数名のチームを編成、一晩教室に泊まり込み、数時間毎に広い校内を巡回した。

 私達のクラスは丁度夏の頃に当たり、ふだんは許されない仲間達との合宿めいた夜警番を楽しんだものだ。宿直の先生はおられたが別棟だったし、夜食を作ることは許されていたので、汁粉や雑炊、なかには闇汁をまねたりして先生方にも進呈した。勿論妙ないたずらを仕掛け、困惑された先生方も多かったはずだ。そして一晩中、当時流行っていたトランプの「ノートラ」に興じたりした。アルコールの持ち込みはあまりなかったように思うが、煙草はかなりやっていた。発売間もないピースをキセルにつめ、「平和会議」と称して回し飲みをしたり、蒸し暑い深夜プールに飛び込み大騒ぎし、近くの職員住宅にいた先生方に叱られた組もあったようだ。あるいはまた、深夜故意に受話器をとり、応答に出る退屈している交換嬢を相手に、きわどい馬鹿話に興じる、ませた連中もいた。

 秋になると各部はほとんど新チームに代わる。そんなある日、ボート部の仲間に誘われて狩野川を上下したことがある。二、三度クラス対抗のボート大会に出たことはあったが、長時間乗せてもらったのは初めてだった。私は埃まみれになる野球部とは異なる低い川面から見る辺りの風景に驚嘆した。そして河口近くから見た夕日に染まる富士の容姿に、忘れがたい感動を覚えた。その一刻は私がそれまで知ることの出来なかった別世界の情景だった。卒業を前にして初めて体験したそのことに、私の胸は、こんな中学・高校を通じての素晴らしい部活動もあったんだなあという、淡い後悔とジェラシーの入り交じった複雑な感慨に締めつけられるように浸されていったのを、今も忘れずにいる。

 150数名による卒業式は、教室より少し広い多目的ホール的一室でささやかに行われた。卒業生と在校生代表がやっと入れる程だった。そしてカラになったプールの観客席を中心に、全員で卒業写真を撮った。

 その少し後で始まったプール内での、私達卒業生に対する一級下の連中の、恒例化した仕返し的集団リンチ事件は、常になく殺気立ったものだったが、タイミングをうかがいながら二、三人で仲裁に入り、なんとか治めることが出来たのも今はなつかしい思い出だ。

 今年もまた、4月半ば同期の同窓会を開催した。1年間に2人の友が他界し、幾人かが病のために欠席した。年をとるということは、新しい出会いより別離が次第に増えていくことなのだと、年金生活の多い旧友と語りながら改めて痛感した。沼東44回卒業生と言われても、未だに私たちはピンと来ない。私達に染み付いた沼中最後の45回卒と、高1回卒の沼津第一高等学校という1年限りの校名は、創立百年になんなんとする沼津中学と沼津東高の歴史の中でもはや全く忘れ去られてしまっている。

 やがて21世紀−創立100周年もやってくる。そして私達も古希を迎える。2枚の卒業証書を手に、戦後とは言え時流に翻弄され消えていった沼一高をいとおしく思い返すのは、もう私達だけかもしれない。


(「香陵同窓会報」 第24号 平成9年7月1日発行 から転載)




会員の思い出 3



静岡県立沼津中学校第45回
沼津東(第一)高等学校第1回
同期生有志 による

  四方一 編
     「『玉音』を聴いて −激動の中の青春− 」 より




「玉音」に関するアンケート質問項目

T.昭和20年8月15日天皇陛下の終戦の放送を、貴方は何処でどういう状況のもとに聞きましたか。
   直接聞かず他の人から聞いて知った場合もどういう状況の中で聞きましたか。

U.その時貴方は何を感じ、何を思いましたか。



A
川村博一 三島市西本町3-27
T.
 長泉町(当時は村?)にあった不二精機工場に動員を受け、旋盤作業に従事していたが、8月15日の日は、正午に、天皇陛下の重大な放送があるというので、工場の横の広場に集まって放送を待っていた。
 当然、その時は「一億玉砕を覚悟して、敵兵に当たれ」という事を言われるものと思っていたが、放送は雑音が多くて、しかも難解な言葉が続き、ほとんどその意味が分からなかった。
 ただ、放送が終ってから、誰ともなく「戦争に負けたんだ」と言い始め、やっと真相を理解し始めた。
U.
 その日は「戦争が終わって平和が来た」という実感はまったくなかった。むしろ、これから上陸して来るアメリカ兵と戦わねばならない、という張り詰めた戦闘意欲と、その反対の恐怖感とが交錯していた。
 だが、家に帰り、夜になって灯火管制が解除され、電球を覆っていた黒い布切れをとり去っていいのだと知った時、初めてホッとした喜びが感ぜられた。



B
田中良観 三島市東本町1-16-25  動員先 富士製作所 旋盤
T.
 いつも腹一杯飯を喰べさせてくれた母親の実家(現裾野市御宿)で昼飯を喰べ、これから陛下の放送があるとのことで奥座敷へラジオを運び、一家全員で正座してラジオを囲み、放送を待つ時間はとても長く感じました。玉音放送は(いまこんな言葉がありますか?)とぎれとぎれでした。「タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ……」だけ心に残っております。放送が終り、これはなにか大変なことになるではないかと、あわてて帰宅しました。
U.
 その朝裾野駅頭でゲートルも付けない姿で降りた私に在郷軍人らしき老人が「天皇陛下の重大な放送があるのにその姿はなんだ!これでズボンの裾をしばってゆけ!」と四本の「わら」を渡され、目の前でズボンの裾と膝下をわらでしばることを強制されたが、午後帰宅の折にはだれもいなかった。この様に突然の大変動がどんな形でくるのか、終戦、敗戦、降伏といまだ経験したことのないことに不安はなく、若さと活力が、これからどんな環境でも生きる気力はあった様に覚えている。
 黒瀬橋の堤で間近な爆弾を受け、駅の機銃掃射で家が燃え、沼津の焼野原を眼にした私は弾にうたれて死ぬことの恐怖が麻痺していた様な気もします。まずはともかく、サイレンが鳴らず風呂敷をはずした電灯の下で一家が安心して暮らせることが一番嬉しかった。

〔追伸〕
 終戦当日の藁の件、裾野駅頭であたかも直接天皇をお迎えする様な服装と態度で唯一人藁束を片手に、大声で一人々々に藁を手渡し、しっかり身につけるのを確認していた。
 一兵卒であったと思われる老農夫の印象は強烈であり、また大きな空しさも残りました。想い返せば終戦の日は私にとって一生に一度しかない時が今も憶えていることは戦争、青春、貴重な時であったと思います。



C
中川和郎 三島市藤代町7-2 当時の住所 三島市宮町3280(現 三島市大宮町三丁目)
動員先 富士製作所 施盤工(工員の付き人)六尺型
T.
 動員で三島地区を中心とした1クラスが3年になると同時に富士製作所に通っていた。8月15、16日と、もしかすると三嶋大社の祭礼を意識しての事だったかも知れないが、連休とされていた。沼津の海岸は遊泳禁止だったので16日に伊豆多賀へ行こうと計画していた。困難な乗車券の手配もすんで、15日細かい打ち合わせのため、当時よく集まっていた、父親が三島の野重二連隊の副官だった山田一世の家に5、6人で昼前からいた。集まってすぐ山田が「どうも、コレらしいぞ」と両手をあげて
言った。父親が明け方近く帰って来、母親に話していたという。そこで正午にある重大放送を聞こうということになった。山田の家にはラジオが2台あったと思う。(6畳間だったと思う。)ラジオの前に正座して玉音なるあの放送を聞いた。
U.
 初めて耳にする玉音は時折まじるガーガーという雑音と、抑揚のないカン高い声でのむずかしい言葉の連続で、ひどく聞きとりにくかった。こんな時こそ泣きながら聞くべきではないかと思ったのは確かだが、涙は全く出なかった。しっとりと水を含んだ海綿が一瞬にしてカサカサにかわき切ってしまった様な胸の中だった。〈「忍びがたきを忍びーって言ったよなあー」〉誰かが言った。「もっと頑張れじゃあなくて、負けたんだよ、本当に」。しばしの沈黙の後で、相良英一が言った。「日本が負けたからって、明日俺達が海へ行っちゃあ駄目かなあー」そのポツリと言った言葉で吾にかえった気がしたことは鮮明に記憶にある。力が抜けてなんの考えも浮かばなかったと言うのが本当の気持ちだったろうと今、思いかえす。ポカンとしていただけだ。
 翌日凪いで曇った海、終った筈なのにそこで鳴りひびいた空襲警報のサイレン。はしゃぐ気持になれなかった重苦しく淋しい海水浴。くやしいとか、残念だったとかの思いはなかった様に思う。なにしろ15歳の少年に全てが分かる筈がなかったのだから―。あの時の想像を絶する初体験の気持ち、感じを記そうとすると、多分、後から思いついた嘘の記憶、自分の中で造りあげた記憶でしかない様な気がしてならない。不悪。



D
中谷貢 三島市東本町二丁目6-21
T.
 学徒動員で三井精機に動員されていたが仕事が無くなり、動員解除後、箱根山西麓で、本土決戦の塹壕用木材搬出作業に従事していた頃、沼津大空襲があり母校が消失、その後片付けにもお呼びがなく、何で当日は休みで家に居たのか思い出せないが、正午に「重大放送があるから聴くように」との連絡で、戦火を免れ残った沼津市金岡西熊堂にあった我家の高周波一段増幅式ラジオの前に、大人は居なかったと思うが、近所の子供たち6〜7人が集り待機していた。
 戦局は日毎に悪くなり、本土決戦に備えて各員一層奮励努力せよとの檄があると思っていたところ、正午になり、昭和天皇(当時は今上陛下)の重々しく荘厳な、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」との玉音放送があり、神国日本はついに敗れたり、これからはどうなるのかと、根上厚士君(四十五回卒)達と全員で心配した。
U.
 当時は、戦時教育が徹底しており、「負けたら鬼畜米兵に男はキンタマを抜かれ、女は強姦され髪を切られ奴隷にされる」等と教えられていたので、これで人生一巻の終わりだなと思った。しかし、当時は軍歌「海行かば」の精神で、死を恐れず、玉砕を崇め、国家天皇の御ために死ぬのは本望と教育されていたので、神風特別攻撃隊等がもてはやされ、人生50年が、人生20年、否、17だ等と言われて居たため、どうなってもよい、遂に神風は吹かなかった、真珠湾攻撃の不意打ちはいけなかった、だが、死を恐れるな、この諦めを悟りと言うのかなと子供心に覚悟を決めた。
 その頃市内は、沼津大空襲で、B29がガソリン(灯油)を撒き、焼夷弾を落としたので、我家の南に在った海軍工廠は一部を残しその南方は沼津駅まで焼け野原になっていた。
 当時家にも焼夷弾が一発落ちこれは自分で消し止めた。ガソリンが撒かれていなかったため消失を免れた。近くの家では、愛鷹山方面に非難したので焼けた家が多かった。
 同級生で、亡くなった斎木進君の家も焼けてしまった。我家は残ったが、家や財産を失った人はさぞ大変だったと思うが当事者でないと、本当の苦しみは分からないだろう。



E
柳下 晃 三島市東町1-20  農家手伝い
T.
 その時、何故か家に居た。父は軍医として召集され、母と弟、近所のおばさん2、3人と玉音放送をきいた。ラジオの調子が悪く雑音が入り、良く聞きとれなかった。只最后の方で陛下の“堪えがたきをたへ”のくだりでおぼろげながら敗戦を自覚した様な気がする。
U.
 小生、当時、小学校から小児喘息というアレルギー疾患があり、中学に入る頃から悪化して、毎晩の様に発作におそわれ、特に気候の変り目、冬場は毎晩発作に悩まされ、最悪の状態で、体力、学力共に諸兄についてゆけず、二学期の始め休学させられた。1年休学のお陰か諸兄の様に工場への動員は免れ、原の浮島辺りの農家への奉仕に駆り出された。お陰で時には、米の飯にありつき良い思いをした様だ。
 敗戦時も相変わらずぜんそくほっさがおさまらず、諸兄とは違い、将来への希望も展望もなく、全く覇気もなく、只なんとなく無気力にすごして居たので、敗戦にも大した感慨もなく受け入れた様な気がする。



会員の思い出 4


  五所平之助監督に諭され
中川和郎 (高1回卒)
 永い戦争が終わった時、私は中学三年生だった。やがて禁じられていた映画館などへの出入りも解除になった。物珍しさだけで通った映画に、私は次第に惹かれていった。
 中学四年の晩秋の頃、焼け残った町の映画館で立て続けに豊田四郎監督の作品が上映された。「鶯」、「若い人」、「冬の宿」、「小島の春」。それらの中で、「小島の春」は私にとって衝撃だった。こんな素晴らしい感動的な作品が、邦画の中にあったのだと独り興奮した。その頃から、映画監督という夢が私の中に芽生え始めたことは確かだ。
 同じ頃、映画好きの同級生とサークルを結成、ガリ版ずりの映画研究雑誌を出した。その世話役が、その直後突然、都立六中へ転校、旧制浦和高校から東大を経て、松竹大船の助監督になった斎藤正夫だった。
 映画への興味と関心は日増しに進み、映画研究部を発足させ、他校にも呼びかけ、伊豆大仁にいた五所平之助監督の「今ひとたびの」の鑑賞会や、五所監督の講演会を催したりした。中学を卒業する際、そのまま映画界に進みたいと五所さんや、伊豆多賀にいた清水宏監督を訪ねたものだ。「昔とは違います。大学を出てからにしなさい」と五所さんに諭され、清水さんには会えなかった。
 その後も夢は捨て切れず早稲田へ進学。入学早々風邪をこじらせ、六月結核と診断され入院し、二年半にわたる療養生活を過ごす。もはや映画監督どころではない。丁寧に観続けた監督たちの作品もすべて中断。夢はしぼんだ。
 復学が昭和二十八年。少しづつ映画を見ながら「映画評論」に投稿し、二・三の拙稿が掲載されたのがせめてもの慰め。後年「わが町三島」という映画を、五所さんに依頼し仲間と一緒に製作したりしたが、映画監督への夢は疾うに消え去ってしまった。
 今はもう、年に数回、町に一つしかない映画館に足を運んでいるだけである。

(「えすかるご VolT」 昭和25年早稲田大学仏文科入学生の手記「何故あなたは仏文を選んだのか」 から転載)



会員の思い出 5


     我らが揺籃の庭
山田勝造 (高16回卒)

 1960年代は、新日米安保条約の成立、池田内閣による国民所得倍増計画、浅沼社会党委員長刺殺事件など騒然たる雰囲気の中で始まった。混沌とした世情の中、日本は、しかし、1964年東京オリンピックをばねに、東海道新幹線の開通、1969年の東名高速道路全線開通など、いわゆる高度経済成長に向かってひたすら走り始めていた。
 終戦の落とし子である我々は、古い世代と新しい世代の狭間で、価値観が激しく揺れ動く世代であったといえよう。儒教的価値観は確実に身体の半分に刻みこまれており、一方主としてアメリカ文化の大波がもう片方の半分を浸食し始めていた。戦後10数年は経過していたがまだまだ日本は貧しく、衣食住いずれをとっても欧米先進諸国には遥かに及ばなかった。
 そんな中、我が沼東は60周年記念行事を迎え、そのモニュメントとしての大瀬岬の一角に若人の家が産声をあげた。我々が2年次のことであった。約800坪の熊笹の急傾斜地を開墾し、バンガローの建設が教師と生徒の手で始められた。土肥の海浜教室、志賀の高原教室もまだ始まって間もなかった。「若人の歌」を皆で歌い、不器用な手つき、足取りでフォークダンスを踊り、女生徒とボートに乗って胸を躍らせた。これら一連のロマンに満ちた師弟同行教育の中心的存在は、今は亡き石内先生であり、その後継者である近藤昭三先生、早乙女先生達であった。その先見性や生徒を思う情熱には頭が下がる思いである。
 私は運動部に所属した。部室棟の横に購買があり、そこで串カツやメンチカツ、コロッケ等を買うのが下級生の役目であった。昼時には大変なラッシュで、夏ともなるとたっぷりかかったソースがワイシャツにこぼれ、泣かされたものである。全国唯一の掃除部もあった。確か一教室掃除すると30円もらった筈である。
 いわゆる学区外の入学者は外人部隊と呼ばれ、南は伊豆半島から西は富士、富士宮、静岡にいたるまで、実に多士済々の面々が揃っていた。当時は沼東は異なる文化的背景を持った若者が集まるまさに異文化接触の地であったといえよう。そのためのトラブルもあったにはちがいないが、お互いが触発されることの方が遥かに多かった筈である。
 当時は女生徒もわずかで(50〜60人程度)、いがぐり頭に学生帽、下駄履きに学ラン姿が圧倒的で、旧制高校的雰囲気が横溢していた。質実剛健を旨とする校風の印象とみえる応援団は盛んで、声の小さい者や、態度の悪い者には容赦なく鉄建制裁が加えられた。教師はそれを知ってか知らずか、めったに口だしをしなかった。それでも女生徒にはそれなりの手心が加えられていたらしく、あの猛者連中もさすがに彼女たちには結構甘かったようである。優秀な女性が多く、国際交流やボランティア活動をはじめ、現在も様々な分野で活躍されている。自立心が豊かで行動力に富む彼女たちは、男女共生時代のパイオニア的存在ともいえよう。
 自治会活動も推奨され、私もそれに打ち込んだ者の一人であったが、全体的には無関心の層が多く、まとめるのに苦労した思い出がある。ここにも教師はほとんど介入してこなかった。当時の先生方の思いは知る由もないが、全体としては生徒の自主・自立を促す姿勢が貫かれていたように思われる。
 冬ともなれば寒風吹き荒ぶおんぼろ校舎を巣立った同輩諸氏の頭にはすっかり白い物が混じるようになった。あれらの日々を振り返れば、懐かしさと少しばかりの悔悟の念が込み上げてくるが、香貫山の麓、狩野の辺にあった旧校舎は紛れもなく揺籃の庭であった。

(「沼中・沼津東高百周年記念誌」 から転載)




会員の思い出 6


  静岡雑感
静岡県副知事 坂本由紀子 (高19回卒)
東中西
 30年ぶりに静岡で生活するようになって、早2年が過ぎた。静岡出身といっても、東部地域でしか生活したことのなかった私にとって、西は浜松・湖西、北は水窪・佐久間など初めて訪問する地域も多く、改めて静岡はこんなにも広いのかと感心した。
 当然、気質も違う。少々乱暴だがひとことで言えば、何事にも積極的で、注文の多い西部地方、保守的な中部地方、おとなしい東部地方というところだろうか。もちろん、どの地域にも積極的な人、保守的な人、おとなしい人はいるのだが、地域全体の印象はずいぶん違う。
 県では、21世紀に向けて『未来への挑戦、あふれる活力、輝く静岡』をキャッチフレーズに、地域の特性を生かした県土作りを推進している。沼東出身の私としては、心の中は東部頑張れ!である。

男と女
 大学を卒業するまでは、自分が女であることを意識することはほとんどなかった。沼東時代を思い出しても、性の違いを感じたのは香陵祭のフォークダンスの時くらいだ。
 それが今の仕事に就いたとたんに、何故か副知事の前に常に女性がついて紹介された。『女性』であることが仕事上必要なのは、女優と女子寮の管理人くらいだと考えていた私にとって、正直この紹介のされ方には戸惑いを感じた。
 子供さんは?と聞かれ、「息子と娘」がいると答えると、娘さんがいれば家のことをしてくれていいですねといわれる。子供には、「自分の力で生きていけるようになりなさい」と言うだけで、女の子ゆえの特別なしつけなど考えたこともなかった私は、これにも戸惑ってしまった。
 社会に出ても沼東時代のように男女が性にかかわりなく伸び伸びと活動できる静岡であってほしいと『男女で創る静岡プラン』を推進しているが、女性の働きやすさ全国ワーストワンなどと言われることのない地域に一日も早くしたいと思う。


平成10年7月1日付
(「香陵同窓会報」 から転載)




会員の思い出 7


     ネット裏の嗚呼昧爽
池田医院院長 池田純介 (高22回卒)
 「香陵同窓会報」という晴れの舞台に私の様な者が登場するのは少しきまりが悪いのです。私は十年前より三島で内科の医院を開業していますが、私の医院には沼中、沼東の諸先輩の患者さんも多く、その中でも大先輩に当たる方からこの荷が重い原稿を依頼され断わり切れませんでした。
 私の高校生活の中で少し自慢できるのは只一つ「野球に明け暮れた生活を送った。」という事です。当時の野球部では甲子園にあと一歩という成績が続いた昭和三十年代の強いチームの伝統を引き継ぎ厳しい練習を繰り返しておりました。しかし私が一年生の時、いろいろな事情で部員が減りチームを組むのさえやっとという状態になってしまいました。更にエースが肩を壊して私に投手のおはちが回ってきましたがなかなか球道定まらず、苦戦が続き、「史上最弱」と酷評するOBもいた程でした。練習試合で負けが混むとチームのムードは悪くなる一方でした。そんな中で夏の大会の抽選日を迎えました。初戦の相手は前年秋の準優勝校・強豪掛川西高に決まりました。しかしこの日を境に「恥ずかしい負け方は出来ない。」という共通した気持ちがナインの心の中に芽生え、チームが一丸となる事が出来ました。試合当日の気持ちを後からチームメイトに聞くと異口同音に「無心」という言葉が返って来ます。皆自分の持っている力を十二分に発揮し、試合はもつれ接戦、延長戦の上に我々は信じられない一勝を挙げたのでした。雨が降る中で大応援団が歌う校歌の何と晴れがましかった事か。私の四十六年の人生の中でも輝かしい思い出として残る一日です。
 今でも夏の大会には時間が許す限り応援に出掛けますが、ネット裏で聞く校歌は大変心地の良いものです。何といっても校歌を聞けるチームは半分しかないのです。沼東野球部は年代により成績も様々ですが多くのOBが「野球をやって良かった。」と言います。部活動の中でこの事が最も大切だと思います。沼東野球部OB会は後輩が充実した部活動を送る事が出来る様に会長を筆頭に活発な支援を続けています。現在は部員の数も増え、戦力も充実しつつあります。投打にあと一枚厚みが加われば群雄割拠の静岡県予選を勝ち抜く事も夢ではありません。今年も又、ネット裏で「嗚呼昧爽」を聞きたいものです。


平成10年7月1日付
(「香陵同窓会報」 から転載)


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